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Fujimi Life

ふじみキリスト教会と南カナンハウスでの日々の出来事を綴っていきます。

憧れの風景

アルバイト先の認知症対応型のグループホームで、夜勤を始めて数ヶ月。
日中とは打って変わり、真っ暗闇のなかに静まるホームの中で、いろんな事を考えます。
介助をするトイレの中で、ふと勝手口から見上げた夜空の下で、
生きることは、こんなにも大変なのかと思い知らされるようです。

ご飯を食べ、風呂に入り、排泄する
それだけのことが、こんなにももどかしく、日々立ち塞がる。

人生を彩り、積み上げ、築いてきたもの、
いま、目に見えて繋がるものは何一つなく、
過去の記憶さえも手放さなければならない。

「身体が動かなくて寝返りも打てない、思うように眠れない、
夜が深くなる度に、早く朝になってって毎晩思うの」
たった一人で海の底に沈むような暗闇の中で、みんな夜が明けるのを待っている。
そんな感覚を夜のホームの中で、ふと感じます。


「いのち いのち 死ぬべきいのち

   この日 この日 思うに絶えず

    死ぬべきいのち」

大正時代の版画家・恩地孝四郎という人が、美大生だった時に友人に宛てて書かいた葉書の中の詩です。
今よりはるかに死が身近であっただろう時代に、20代の若き画家は、必ず訪れる死を思い、そのいのちの重さに耐えられないと言葉を送りました。

死とは断絶だと、誰かが言いました。
他者との断絶、世界との断絶、神との断絶 。

このいつか来るだろう断絶の日を思うと、耐えられない思いでいっぱいになる。

そんな耐えがたさを、誰もが抱いて生きているのでしょうか。

目に見えるものに、あまりに価値を置いてきた私たちの世界は、
その断絶の耐え難さに言葉を失わざるを得ないように思います。

でも、最近思うのは、その耐えがたさは、

いつしか不思議と、ある「憧れ」へと変えられていくのかもしれないということです。

いつかのクリスマス礼拝でk牧師が後藤敏夫牧師の断想について話されたのがとても印象に残っています。長年の牧師の働きを辞め、北海道の大地に在る恵泉塾という共同体で生活を始めた後藤敏夫氏はご自身を、ある種の「他郷感覚」に生きる者であると言いました。

それは1世紀のユダヤ人クリスチャンや他郷を生きた「在日」コリアン1世のいのちの記憶の融合でもあり、信仰者本来の存在感覚であると言います。

「惠泉塾に生きることに親情的な所属意識による安定や安心はありません。ここはただ「信仰によって」という一点において結びつき、また存在しています。私は、「地上では旅人であり寄留者である」ということが、信仰者本来の存在感覚であることを、ここにいてより鮮明に覚えるようになりました。定住しているここは定住の場ではなく、根づくべきここは根づいてはならない地でもあります。活き活きとした不安と明らかな希望をもって前のめりに歩まざるを得ません。」

(どこかに泉が湧くように/「冬の旅:旅人であり寄留者として」)

他郷に生きる人々の、呻きと渇きは、
いつの日か、故郷への深い憧れへと変えられていきます。


深い深い夜の闇があることを知ると共に、朝焼けの空の美しさを知る。


死に絶えたような冬の土から、信じられない程綺麗な春の花が咲く。


どういうわけか、夜は必ず明け、春は必ず訪れるということに、
ひとつの憧れを抱かずにはいられない。


どういうわけか分からない。


どういうわけか分からないけど、歴史の中で、日々の生活の中で、
私達はいつもそこに希望を置いてきたように思います。

 
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。
約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし、出てきた土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(へブル11:13-16)
 

 
Deep river, my home is over Jordan,
Deep river, Lord,
I want to cross over into campground.

深い河 故郷はヨルダン川の向こう岸
深い河 主よ
河を渡り 集いの地へ行かん

黒人霊歌「Deepriver」

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