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Fujimi Life

ふじみキリスト教会と南カナンハウスでの日々の出来事を綴っていきます。

フォーラム「地域社会に開かれた教会」に参加して

先日、御茶ノ水で行われた東京ミッション研究所冬季フォーラム「地域社会に開かれた教会」に、当教会からK牧師がパネリストとして発表するということで、参加してきました。

大学生のころ良く来た御茶ノ水の街は懐かしい雰囲気でした。中央線沿いのお堀には梅の花や菜の花がちらほらと咲いていて、会場までの道には美味しそうなラーメン屋さんの看板がちらほらあるのを横目に、相変わらずの人混みに流されながら会場の御茶ノ水クリスチャンセンターにたどり着きました。

このフォーラムは、東京ミッション研究所というところが主催で、目黒教会「コーヒー仲間」の横山聖司牧師、早稲田大学経済学教授で弥生台教会の牧師をしている東條隆進牧師、そして当教会の犬塚契牧師の3名がパネリストとして登壇しました。

テーマは「地域社会に開かれた教会」でした。
日本の教会が地域社会から孤立する傾向にある中で、これからの時代の宣教の在り方や福音理解を具体的な教会の試みから問い直すという 内容です。

その実践例として、地域の方々を招いてのカフェをしている目黒教会、モンテッソーリ教育の保育施設や共同生活のできるシェアハウスを立ち上げたふじみキリスト教会の働きが発表されました。

「地域社会に開かれた教会」それは、教会の教勢を伸ばす為の新たな方法という意味ではもちろんありません。これからの時代に地域社会の中で教会が生き延びることを目的とするモデル研究でもないでしょう。

それは、時代が変わり、人々の求めや渇きの在り方が変わっていく中で、どのように教会が人々に希望と信頼をもって福音を語り得る事が出来るのかという問い直しではないでしょうか。

明日への恐れがリアリティをもって迫ってくる現代で、「日曜日に教会に来て礼拝しましょう」というだけで本当にいいのだろうか。混沌 と不安に覆われた世界の中で、教会は扉を開けて会堂で人々を待つだけでいいのだろうかという問いが今、広がりつつあります。

東條牧師はD.ボッシュの「宣教のパラダイム転換」の話しを出されましたが、私達はひとつの時代の節目を生きていることを覚えなければならないのでしょう。

2教会の働きの発表があった後、東條牧師は応答としてコリントⅠ1章よりお話されました。
地を這うような宣教の愚かさは、なお低きに立ち続ける神の愛へと帰っていくものであることを知らされました。


自分達のことを言うならば、この試みはあまりにも手探りで、これでいいのだろうかという悩みは尽きることがありません。
うまくいっているのか、失敗しているのか、それは誰にも分からないのです。
共に生きるということは、変えがたい喜びであり、一方で傷つかずにはいられないことでもあります。
冷や汗をかいたり、地団太を踏んだり、届かない思いに言葉を失ったり。
人と人との間を生きる寂しさに耐えながら、それでもなお共同体を愛することへと導かれていきます。

教会を考えるとき、宣教の働きを考えるとき、
やはりこの不思議さに神秘的なものを感じずにはいられません。

私達は全てを見る事は出来ませんが、いま与えられている所に希望と信頼を置き続ける者でありたいと思います。

そして、「それでも一緒に生きていける方法を考えよう」という呼びかけは、
神の深き愛へと帰っていく、愚かな試みであることを信じていきたいと改めて思わされる1日でした。

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントⅠ1章)

 

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