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Fujimi Life

ふじみキリスト教会と南カナンハウスでの日々の出来事を綴っていきます。

新年~クリスマスを振り返りつつ、新しい年へ

あけましておめでとうございます。(遅!)

アドベントからクリスマス、クリスマスからお正月へと瞬く間に月日が過ぎました。

そんなこんなで、ご挨拶が遅れてしまいました。(汗)

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

一か月も過ぎてしまいましたが、いまひと時クリスマスの恵みを振り返っています。

毎年、11月を過ぎると教会ではクリスマスの準備にみんなあわただしくなり、いつもよりにぎやかな雰囲気の日曜日が続きました。

24日のイブ礼拝、25日のクリスマス礼拝では、

それぞれヨセフとシメオンの視点からのクリスマスの物語が語られました。

戸惑いと緊迫のなか婚約者のマリアの妊娠を「よきしらせ」として受け入れ、その後聖書の記事に二度と登場することのなかったヨセフ。救い主を抱くまでは死なないとお告げを受け、何世紀もの民族の思いを背負い、おそらく生涯のほとんどを「待つ」ことにささげた老人シメオン。

これらの物語を読むと、彼らの人生って何だったのか、考えてしまいます。

どんな報いがあったのだろう、その人生にはどんな意味があったのだろう。。

特に何かを成し遂げるわけでもなく、聖書の物語にたった数ページ記されて、消えていった彼らの人生。

「この人生にはどんな意味があるのだろう」、という問いは私たちの心の中の片隅にいつもあるように感じます。

できたことよりも、できなかったことの方が多く、

人に感謝されるよりも、迷惑をかけている方がはるかに多いだろう私の人生。

絶対に歴史には名を残すことのないだろう私の人生。

なんの為に生きているのか、そんな思いがふと頭をよぎる日々を生きます。

 

しかし、不思議なことですが、聖書の中に出てくる数々の物語は、その人が何を成し、何を残したかということに関心をもって書かれてはいないようなのです。

礼拝では、このヨセフやシメオンの物語は、「神が人を取り戻す物語」である、と語られました。

 

彼らの心情の多くは聖書には記されていません。

神とその人との間にどんなやりとりがあったのかを知ることはできません。

しかし、神がその人を取り戻す物語としてそれを読むときに、

なんだか不思議な慰めを感じます。

これまで自分だけであった人生に、もうひとつのまなざしが加えられるということの大きさを、知らされます。

 

今日も空は高く、広く、深く、そこに広がります。

今、与えられているこの一日が、地に落ちたたった一粒の種の物語ではなく、

種を蒔き、そこに雨を降らせ、光を与え、風を吹かせてくださる方の物語の中にあることを覚えます。

がむしゃらに見続けてきた地から目をあげ、ふと空を見上げて生きることの慰めを感じたクリスマスでした。