Fujimi Life

ふじみキリスト教会と南カナンハウスでの日々の出来事を綴っていきます。

この時代に置かれて

南カナンハウスの歩みも色々な意味で、本格的に始動しつつあります。

 

南カナンハウスは多世代居住型シェアハウスとして現在、子ども世代から80代の世代が共同生活をしています。

 

家族でもなく、施設でもない、

住民同士の意思と協力によって生活している共同体です。

 

現在の日本には超高齢社会という大きな波が押し寄せつつあることを思います。今後、団塊の世代の人々が後期高齢者となる中で、病院の受け皿は減り、多くの有料老人ホームが月数万円近くの費用がかかり、特養はすでに数百人待ち、パンク状態です。在宅介護の当事者や家族は孤立する一方で、施設では慢性的な人材不足と日々の業務の多忙化で、スタッフは疲弊しています。そして、2025年(7年後!)には、病院でも自宅でも最期を迎えることのできない、43万人もの人々が死に場所を失うと言われているというのです。

 

福祉専門学校時代に先生が、超高齢化社会について、「これからとんでもない時代が来る、想像以上の修羅場が来ることをあなたたちは分かっているのか」と凄い剣幕で問われたことをよく覚えていますが、もう「とんでもない時代」はすぐそこまで来ているのでしょう。

  

南カナンハウスには、いま、地域の訪問看護ステーション、往診のドクター、訪問介護ステーション、ケアマネージャー、ボランティアの人々が繋がり、新たな入居者の生活を支えて下さっています。先日も、地域包括センターの方が見学に来てくださいました。

この、地域の繋がりがどれほど心強く、必要不可欠なものかを痛感させられています。

 

人はもちろん一人では生きていけませんし、今の日本社会では家族だけで介護を続けるのは、大変難しいことです。
人々や地域の繋がりや協力があって、初めて在宅介護の道が拓けることを身をもって知らされています。

 

そして、人のデザインについて、考えます。

人は赤ちゃんとして生まれてから、成長し、老いていく、その不思議を思います。

結婚式では、「健やかな時も病める時も、豊かな時も貧しい時も」相手を支え、共に生きることを確認するわけですが、そこには、その〝いのちまるごと〟を祝福し、共におられようとする創造者のデザインがあると南カナンハウスは考えます。

 

「安心して絶望できる場」とは、べてるの家の向谷地さんの言葉ですが、人生のどの途上にあっても、たとえ絶望の最中であっても、人がそれぞれの苦労を持ち寄り、隣り合う中で、生まれるものがあるのだと信じたいと思います。

 

この時代に、この地に置かれたものとして、いま、与えられている繋がりの一つ一つに、希望をいただきながら、整えるべき事は整え、歩んでいきたいと思います。

 

新たな生活と春の訪れ

なんてことでしょう・・・

大変おひさしぶりの更新になってしまいました。。

みなさまお元気ですか?

最近の南カナンハウスはというと、新しい入居者が2人入られました。そして、更にハムスターが1匹増えて、なんと7人と2匹の共同生活となりました!

現代ではもはや大家族です…。(動物1匹分、サザエさん家より多いです…!)

 

子どもたちが学校に行く朝と、子どもたちが学校から帰ってくる夕方の南カナンハウスは嵐のようににぎやかで、

犬のナナとハムスターのハムちゃん(新人)は、昼間の間に

これでもかというくらい寝だめしています。(時々わたくしも…)

 

でも、旅行などでkファミリーがでかけると、

「子どもたちがいないとやっぱり寂しいわね」なんてみんなで話しています。

 

 新しい入居者のお二人が入られて、南カナンハウスは新しい雰囲気をいただいています。

パートナーを亡くされ、特養(介護施設)を出て教会の近くに住みたいと願われて入居した70代のNさんは、

連続テレビ小説を観たり、お茶を飲んだり、こたつで横になったりして、

過ごされています。

ご夫妻ともに幼少期から小児マヒという障害を持ちながら、家族で支え合いどんなときも明るく過ごされてきたNさんです。

30年間、旦那さんのご両親と同居されていたというNさんは、

「家族が多いのは良いことよ。」と、さすがの長年の同居経験で、共同生活にあっという間になじまれています。

 

もう一人の方は、教会員のお母さんのSさん(80代)です。Sさんは一年ほど前から体調不良のため入院生活をされていて、娘さんは退院後の暮らしに不安を覚えておられましたが、ちょうど南カナンハウスが教会に与えらえ整えられていく時期だったこともあり、娘さんはそこに吹かれる風を感じられ、お母様の入居を申し出てくださいました。

Sさんはいつも所定の椅子に座られて、静かに、静かに一日を過ごされます。

時々、花瓶の花や食卓の彩りに「わぁ、きれいですね」とささやかれます。

 

そんなお二人のいるリビングには、 

お天気が良いと陽の光が差し込み、

その様子は、まるでフェルメールの絵画を見ているかのような静けさに満ちています。

そこに不思議な懐かしさがあるのはなぜでしょう。

 

そういえば、今日お昼のパンを買いに外に出ると、パン屋さんの前に小さな桜が咲いていました。

帰り道の道路沿いには、いつのまにか立派な白木蓮の花が咲いていました。

新しい季節の訪れは、こんな風にさりげなく、でも確かにやってくるのですね。

 

時満ちて吹かれるこの風に、この身をまかせていきたいと思う、

そんな昼下がりでした。

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連合の集い~宣教のパラダイムシフトを考える~

先日、神奈川バプテスト連合の集いが百合丘で行われました。

今年の連合の集いでは、「宣教のパラダイムシフト」というテーマで、一日のプログラムがもたれました。

 
その中で、南カナンハウスも発表をすることになり、当日の朝はカナンハウスメンバー総出で徹夜をし、準備をしました。
(カナンハウスはいつもギリギリの所で守られているのです。)
 
準備をしていて思わされたことは、これまでの歩みが本当に沢山の恵みによって(それとは気づかないほどのさりげなさで)守られてきたことです。
 
何かを成し遂げた!と堂々と言うことはできませんが、ここには絶えず人の流れがあり、そこから生まれる喜びも、痛みも、不安も恵みとして振り返りました。
 
もっと上手く、効率的に、出来ることがあったと言われればそうかもしれませんが、そうできなかった所にも主の取り扱いがあったと信じたいです。
 
連合の集いの中では、ふじみ教会が牧師を通して与えられたビジョンを会場のみなさんと分かち合いました。
南カナンハウスが始まった時から、宣教とは何かということが、内外から絶えず問われてきました。パラダイムをシフトするとは、こんなに苦しいものかと震えるような時もあったと思います。
 
それでも、そのことを、ただ1つの教会の出来事として終えるのではなく、この時代の教会の課題として他教会の皆さんと分かち合えたことは、本当に感謝なことでした。
それぞれの教会が置かれている場所、見ているビジョンを知ることができたことも、深い励ましとなりました。
 
私たちは神さまの憐れみがなければ、生きていけない者だと繰り返し、思います。
 
憐みによって生かされている者として、
許されながら、愛することの難しさにぶつかりながら、
見ることを許された幻を、希望としていただいて、歩みを進める幸いを感じる一日でした。

スポーツの春~スリッパ卓球大会とソフトボール大会~

 今年の春はスポーツの春となりました。

イースターには恒例のスリッパ卓球大会があり、30名以上のエントリーの中、

白熱の試合が行われました。

勝戦は持っているのがスリッパとは思えないほど、

本格的な試合でした!

中国からの留学生のkさんもスリッパで超高速スマッシュを炸裂させ、

もはやスリッパだからといってあなどれません。。

 勝った人も負けた人も、うれしい人も悔しい人も、

筋肉痛で苦しんだ人も、そうでない人も、

とにかく最後に一緒に飲む三〇矢サイダーのおいしいこと!

また来年が楽しみですね。

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 ↑なぜか裸で試合する子どもたち

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そして、4月の後半には、神奈川連合合同のソフトボール大会があり、ふじみからも21名が参加しました。全体ではなんと約130人の参加でした!

私もこの日に備えて、仕事終わりにバッティングセンターに寄り、ピッチングマシンからのデットボールを浴びるなどの猛特訓をしてきましたが、甘かったようです。。

1塁まで走っただけなのに、どうして体がガクガクするのでしょう。日頃の運動不足が身に染みました。(次の日ことごとく皆が筋肉痛で苦しんだことは書くまでもありません。。)

一生懸命頑張りましたが、試合結果は1勝2敗と悔しい結果でした。。

 

それでも、汗を流した後に青空の下でいただくお昼ご飯とコ〇・コーラのおいしいこと!

今度こそは優勝目指して特訓していきたいですね。

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↑元野球部の修牧師、見よ、この弾丸ライナーを!

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↑ゆる~い感じで応援するチアガールたち

 

春の麻雀大会

 

先月の末日に、南カナンハウスで麻雀じゃん教室主催の麻雀大会がありました。

大会には何人か初めて参加してくださる方も来られて、とてもにぎやかな時となりました。

皆で夕食のカレーを食べて、その後3卓に分かれて白熱した勝負をしました。

周りから悲鳴や歓喜の声が上がるのをききながら、初心者の私は自分の役をそろえるのに必死になっていたら、あっという間に時間がきてしまいました。

春の初めに、こうして夜更けまでみんなでワイワイやるのも、楽しいものですね。

4年目になる麻雀教室は今も毎月やっていますので、

興味のある方はぜひ遊びに来てくださいね。

(安心してください、賭けていませんから!)

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フォーラム「地域社会に開かれた教会」に参加して

先日、御茶ノ水で行われた東京ミッション研究所冬季フォーラム「地域社会に開かれた教会」に、当教会からK牧師がパネリストとして発表するということで、参加してきました。

大学生のころ良く来た御茶ノ水の街は懐かしい雰囲気でした。中央線沿いのお堀には梅の花や菜の花がちらほらと咲いていて、会場までの道には美味しそうなラーメン屋さんの看板がちらほらあるのを横目に、相変わらずの人混みに流されながら会場の御茶ノ水クリスチャンセンターにたどり着きました。

このフォーラムは、東京ミッション研究所というところが主催で、目黒教会「コーヒー仲間」の横山聖司牧師、早稲田大学経済学教授で弥生台教会の牧師をしている東條隆進牧師、そして当教会の犬塚契牧師の3名がパネリストとして登壇しました。

テーマは「地域社会に開かれた教会」でした。
日本の教会が地域社会から孤立する傾向にある中で、これからの時代の宣教の在り方や福音理解を具体的な教会の試みから問い直すという 内容です。

その実践例として、地域の方々を招いてのカフェをしている目黒教会、モンテッソーリ教育の保育施設や共同生活のできるシェアハウスを立ち上げたふじみキリスト教会の働きが発表されました。

「地域社会に開かれた教会」それは、教会の教勢を伸ばす為の新たな方法という意味ではもちろんありません。これからの時代に地域社会の中で教会が生き延びることを目的とするモデル研究でもないでしょう。

それは、時代が変わり、人々の求めや渇きの在り方が変わっていく中で、どのように教会が人々に希望と信頼をもって福音を語り得る事が出来るのかという問い直しではないでしょうか。

明日への恐れがリアリティをもって迫ってくる現代で、「日曜日に教会に来て礼拝しましょう」というだけで本当にいいのだろうか。混沌 と不安に覆われた世界の中で、教会は扉を開けて会堂で人々を待つだけでいいのだろうかという問いが今、広がりつつあります。

東條牧師はD.ボッシュの「宣教のパラダイム転換」の話しを出されましたが、私達はひとつの時代の節目を生きていることを覚えなければならないのでしょう。

2教会の働きの発表があった後、東條牧師は応答としてコリントⅠ1章よりお話されました。
地を這うような宣教の愚かさは、なお低きに立ち続ける神の愛へと帰っていくものであることを知らされました。


自分達のことを言うならば、この試みはあまりにも手探りで、これでいいのだろうかという悩みは尽きることがありません。
うまくいっているのか、失敗しているのか、それは誰にも分からないのです。
共に生きるということは、変えがたい喜びであり、一方で傷つかずにはいられないことでもあります。
冷や汗をかいたり、地団太を踏んだり、届かない思いに言葉を失ったり。
人と人との間を生きる寂しさに耐えながら、それでもなお共同体を愛することへと導かれていきます。

教会を考えるとき、宣教の働きを考えるとき、
やはりこの不思議さに神秘的なものを感じずにはいられません。

私達は全てを見る事は出来ませんが、いま与えられている所に希望と信頼を置き続ける者でありたいと思います。

そして、「それでも一緒に生きていける方法を考えよう」という呼びかけは、
神の深き愛へと帰っていく、愚かな試みであることを信じていきたいと改めて思わされる1日でした。

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントⅠ1章)

 

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新年~クリスマスを振り返りつつ、新しい年へ

あけましておめでとうございます。(遅!)

アドベントからクリスマス、クリスマスからお正月へと瞬く間に月日が過ぎました。

そんなこんなで、ご挨拶が遅れてしまいました。(汗)

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

一か月も過ぎてしまいましたが、いまひと時クリスマスの恵みを振り返っています。

毎年、11月を過ぎると教会ではクリスマスの準備にみんなあわただしくなり、いつもよりにぎやかな雰囲気の日曜日が続きました。

24日のイブ礼拝、25日のクリスマス礼拝では、

それぞれヨセフとシメオンの視点からのクリスマスの物語が語られました。

戸惑いと緊迫のなか婚約者のマリアの妊娠を「よきしらせ」として受け入れ、その後聖書の記事に二度と登場することのなかったヨセフ。救い主を抱くまでは死なないとお告げを受け、何世紀もの民族の思いを背負い、おそらく生涯のほとんどを「待つ」ことにささげた老人シメオン。

これらの物語を読むと、彼らの人生って何だったのか、考えてしまいます。

どんな報いがあったのだろう、その人生にはどんな意味があったのだろう。。

特に何かを成し遂げるわけでもなく、聖書の物語にたった数ページ記されて、消えていった彼らの人生。

「この人生にはどんな意味があるのだろう」、という問いは私たちの心の中の片隅にいつもあるように感じます。

できたことよりも、できなかったことの方が多く、

人に感謝されるよりも、迷惑をかけている方がはるかに多いだろう私の人生。

絶対に歴史には名を残すことのないだろう私の人生。

なんの為に生きているのか、そんな思いがふと頭をよぎる日々を生きます。

 

しかし、不思議なことですが、聖書の中に出てくる数々の物語は、その人が何を成し、何を残したかということに関心をもって書かれてはいないようなのです。

礼拝では、このヨセフやシメオンの物語は、「神が人を取り戻す物語」である、と語られました。

 

彼らの心情の多くは聖書には記されていません。

神とその人との間にどんなやりとりがあったのかを知ることはできません。

しかし、神がその人を取り戻す物語としてそれを読むときに、

なんだか不思議な慰めを感じます。

これまで自分だけであった人生に、もうひとつのまなざしが加えられるということの大きさを、知らされます。

 

今日も空は高く、広く、深く、そこに広がります。

今、与えられているこの一日が、地に落ちたたった一粒の種の物語ではなく、

種を蒔き、そこに雨を降らせ、光を与え、風を吹かせてくださる方の物語の中にあることを覚えます。

がむしゃらに見続けてきた地から目をあげ、ふと空を見上げて生きることの慰めを感じたクリスマスでした。