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Fujimi Life

ふじみキリスト教会と南カナンハウスでの日々の出来事を綴っていきます。

春の麻雀大会

 

先月の末日に、南カナンハウスで麻雀じゃん教室主催の麻雀大会がありました。

大会には何人か初めて参加してくださる方も来られて、とてもにぎやかな時となりました。

皆で夕食のカレーを食べて、その後3卓に分かれて白熱した勝負をしました。

周りから悲鳴や歓喜の声が上がるのをききながら、初心者の私は自分の役をそろえるのに必死になっていたら、あっという間に時間がきてしまいました。

春の初めに、こうして夜更けまでみんなでワイワイやるのも、楽しいものですね。

4年目になる麻雀教室は今も毎月やっていますので、

興味のある方はぜひ遊びに来てくださいね。

(安心してください、賭けていませんから!)

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フォーラム「地域社会に開かれた教会」に参加して

先日、御茶ノ水で行われた東京ミッション研究所冬季フォーラム「地域社会に開かれた教会」に、当教会からK牧師がパネリストとして発表するということで、参加してきました。

大学生のころ良く来た御茶ノ水の街は懐かしい雰囲気でした。中央線沿いのお堀には梅の花や菜の花がちらほらと咲いていて、会場までの道には美味しそうなラーメン屋さんの看板がちらほらあるのを横目に、相変わらずの人混みに流されながら会場の御茶ノ水クリスチャンセンターにたどり着きました。

このフォーラムは、東京ミッション研究所というところが主催で、目黒教会「コーヒー仲間」の横山聖司牧師、早稲田大学経済学教授で弥生台教会の牧師をしている東條隆進牧師、そして当教会の犬塚契牧師の3名がパネリストとして登壇しました。

テーマは「地域社会に開かれた教会」でした。
日本の教会が地域社会から孤立する傾向にある中で、これからの時代の宣教の在り方や福音理解を具体的な教会の試みから問い直すという 内容です。

その実践例として、地域の方々を招いてのカフェをしている目黒教会、モンテッソーリ教育の保育施設や共同生活のできるシェアハウスを立ち上げたふじみキリスト教会の働きが発表されました。

「地域社会に開かれた教会」それは、教会の教勢を伸ばす為の新たな方法という意味ではもちろんありません。これからの時代に地域社会の中で教会が生き延びることを目的とするモデル研究でもないでしょう。

それは、時代が変わり、人々の求めや渇きの在り方が変わっていく中で、どのように教会が人々に希望と信頼をもって福音を語り得る事が出来るのかという問い直しではないでしょうか。

明日への恐れがリアリティをもって迫ってくる現代で、「日曜日に教会に来て礼拝しましょう」というだけで本当にいいのだろうか。混沌 と不安に覆われた世界の中で、教会は扉を開けて会堂で人々を待つだけでいいのだろうかという問いが今、広がりつつあります。

東條牧師はD.ボッシュの「宣教のパラダイム転換」の話しを出されましたが、私達はひとつの時代の節目を生きていることを覚えなければならないのでしょう。

2教会の働きの発表があった後、東條牧師は応答としてコリントⅠ1章よりお話されました。
地を這うような宣教の愚かさは、なお低きに立ち続ける神の愛へと帰っていくものであることを知らされました。


自分達のことを言うならば、この試みはあまりにも手探りで、これでいいのだろうかという悩みは尽きることがありません。
うまくいっているのか、失敗しているのか、それは誰にも分からないのです。
共に生きるということは、変えがたい喜びであり、一方で傷つかずにはいられないことでもあります。
冷や汗をかいたり、地団太を踏んだり、届かない思いに言葉を失ったり。
人と人との間を生きる寂しさに耐えながら、それでもなお共同体を愛することへと導かれていきます。

教会を考えるとき、宣教の働きを考えるとき、
やはりこの不思議さに神秘的なものを感じずにはいられません。

私達は全てを見る事は出来ませんが、いま与えられている所に希望と信頼を置き続ける者でありたいと思います。

そして、「それでも一緒に生きていける方法を考えよう」という呼びかけは、
神の深き愛へと帰っていく、愚かな試みであることを信じていきたいと改めて思わされる1日でした。

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントⅠ1章)

 

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新年~クリスマスを振り返りつつ、新しい年へ

あけましておめでとうございます。(遅!)

アドベントからクリスマス、クリスマスからお正月へと瞬く間に月日が過ぎました。

そんなこんなで、ご挨拶が遅れてしまいました。(汗)

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

一か月も過ぎてしまいましたが、いまひと時クリスマスの恵みを振り返っています。

毎年、11月を過ぎると教会ではクリスマスの準備にみんなあわただしくなり、いつもよりにぎやかな雰囲気の日曜日が続きました。

24日のイブ礼拝、25日のクリスマス礼拝では、

それぞれヨセフとシメオンの視点からのクリスマスの物語が語られました。

戸惑いと緊迫のなか婚約者のマリアの妊娠を「よきしらせ」として受け入れ、その後聖書の記事に二度と登場することのなかったヨセフ。救い主を抱くまでは死なないとお告げを受け、何世紀もの民族の思いを背負い、おそらく生涯のほとんどを「待つ」ことにささげた老人シメオン。

これらの物語を読むと、彼らの人生って何だったのか、考えてしまいます。

どんな報いがあったのだろう、その人生にはどんな意味があったのだろう。。

特に何かを成し遂げるわけでもなく、聖書の物語にたった数ページ記されて、消えていった彼らの人生。

「この人生にはどんな意味があるのだろう」、という問いは私たちの心の中の片隅にいつもあるように感じます。

できたことよりも、できなかったことの方が多く、

人に感謝されるよりも、迷惑をかけている方がはるかに多いだろう私の人生。

絶対に歴史には名を残すことのないだろう私の人生。

なんの為に生きているのか、そんな思いがふと頭をよぎる日々を生きます。

 

しかし、不思議なことですが、聖書の中に出てくる数々の物語は、その人が何を成し、何を残したかということに関心をもって書かれてはいないようなのです。

礼拝では、このヨセフやシメオンの物語は、「神が人を取り戻す物語」である、と語られました。

 

彼らの心情の多くは聖書には記されていません。

神とその人との間にどんなやりとりがあったのかを知ることはできません。

しかし、神がその人を取り戻す物語としてそれを読むときに、

なんだか不思議な慰めを感じます。

これまで自分だけであった人生に、もうひとつのまなざしが加えられるということの大きさを、知らされます。

 

今日も空は高く、広く、深く、そこに広がります。

今、与えられているこの一日が、地に落ちたたった一粒の種の物語ではなく、

種を蒔き、そこに雨を降らせ、光を与え、風を吹かせてくださる方の物語の中にあることを覚えます。

がむしゃらに見続けてきた地から目をあげ、ふと空を見上げて生きることの慰めを感じたクリスマスでした。

 

  

アドベント〜待降節〜

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来週からアドベントが始まるので、今年も礼拝堂に飾るリースをy姉とk親子が作ってくださいました!

 

ふじみ教会のリースは、本物の木での手作りなのです。

教会の駐車場の木をk牧師にきってもらい、

2時間後には、素敵なリースに変身です。

 

k姉によると、リースの緑は永遠、リボンの赤はキリストの血という意味があるそうです。

 

チャペルに心のこもった素敵なリースが飾られました。


リース作りの隣ではクリスマスツリーを作りました。

 

今年は雰囲気を変えて、ブルーで統一してみました。意味は特にありませんが(笑)、イメージとしては夜空に輝く星たちでしょうか!

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アドベントは日本語では待降節といいます。

クリスチャンにとってクリスマスまでの待降節は、良き知らせを待ち望む時、大切な時間です。

 

森下辰衛という人が、「瞬きの詩人 水野源三の世界」という文章のなかで、待つことについて書かれているのを読みました。

 

『「待つこと」は、訪れを待つことです。春の訪れであったり、人の訪れであったり、知らせの訪れであったり。いずれも、そこには確かにして良きものへの期待(ある時には恐れであったとしても)と信頼があります。神という最もよき人格が、計画された秩序の通りに訪れを与えてくださること。それを摂理といいましょう。だから「待つこと」は、摂理の伴った楽しみです。」

 

「源三さんは、苦しみからの解放ではなく、眠りの平安でもなく、朝の光を待ちました。その方にささげる詩と、その方が来てくださることだけを待ちながら、あの信州の片田舎の夜の布団のなかで、待つことそのものになってゆくとき、彼の中に、朝の光といのちの声を受けるにふさわしい心の耳が整えられてゆくのです。それは単なる朝以上の、人間そのものの夜明け、また再臨の希望でもあるような朝。そんな朝の光が見え始めるようです。」

 

待つことの楽しみと、苦しみを思います。

そして自分は本当に待つことが苦手だなぁと思います。

すぐに手に入れたい、すぐに答えがほしい、そんな気持ちに振り回されてばかりの者です。

でも、待つことの本当の意味を考えるとき、やっぱり少し慰められるような気持ちがします。

その人が誰の目から見ても苦難のただ中にあったとしても、依然として自分の周りが暗闇であったとしても、「確かにして良きもの」の訪れを待ち続ける中で、人は本当に待つべきものを見出し、そこへとふさわしく整えられていくのでしょう。

 

今年のアドベントは、そんなことを思い出しながら迎えています。

 

「夜明けを待つ」水野源三

 

歯が痛む夜

咳が出る夜

けいれんが起こる夜は

夜明けが待ち遠しい

あと五時間

あと四時間

あと三時間と

夜明けを待っている

主よと呼びながら

朝の光

雀の声を待つ

 

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夜の祈祷会

ふと、夜の祈祷会の様子。

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ふじみ教会では、毎週水曜日の朝と夜に聖書の学びの時を持っています。

小田原のお蕎麦屋さんで働くS兄は、いつも小田原名物をお土産に持ってきてくれます。

今日は世にも珍しいイカスミのかまぼこを祈祷会の後にみんなでいただきました。

なんて美しいかまぼこでしょう!!

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S兄、いつもありがとうございます。
S兄のおかげで水曜日の夜はいつも心もお腹もいっぱいです。ごちそうさまでした。

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ぜいたくな夕食会

10月4日金曜日。

教会のO久保姉が南カナンハウスに、手料理をご馳走しに来てくれました!
せっかくなので、何人かに呼びかけて夕食会を開きました。
凄いごちそうです!

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いくらご飯に、カキフライ、エビフライ、角煮にタコと大根の煮物、サラダに菊の花のお浸し。。!どうして私たちの好物ばかりなのでしょう!!
どれも美味しいお味とO久保姉の愛が染み込んだぜいたくなごはんでした。みんなで色んな話をして、子供たちは沢山遊んで、、。
こんな風に大大家族的な夕食もいいですね。
とてもとても忙しい中、来てくださったO久保姉、ありがとうございました。
また、来月も来てくれないかなぁ。。笑

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天へ―召天者記念礼拝

10月23日(日)ふじみ教会の 召天者記念礼拝と墓前礼拝がありました。

約40名の方々の写真が会堂に並び、「天へ」と題しての犬塚契牧師のメッセージがありました。

午後は墓前礼拝に皆で向かいました。
車で1時間ほど走った御殿場の富士霊園というところに、私たちの教会のお墓があります。(教会の人々が納骨される共同のお墓です)
色とりどりの花が飾られた教会の墓石には「我らの国籍は天にあり」と彫られています。
その墓前で、賛美をし、礼拝をお献げしました。秋風が吹く中での礼拝でした。

犬塚契牧師は、復活を信じることは、世界が良いものとして造られたことを信じることだと語られました
それは、悪や苦難の存在を見ないということではなく、「世界は贖われ得る」ことを信じることだというのです。

 

静かに広がる霊園の中で、外国のある教会でイースターに外の街路に向かって繰り返し行われたという宣言を、私たちも行いました。

道行く人々はその教会の宣言を聞いて、笑って冷やかすのだといいます。

それでも、どんなに滑稽であったとしても、その宣言は地において、限りない私たちの慰めであり、望みでありつづけるのだと思いました。

 

○恐れることはない。わたしは、あなたがたが十字架につけられたイエスを探して いることを知っている。その方は死からよみがえられ、あなたがたの前を行かれている。来て見なさい!!ハレルヤ

 

-----彼は本当によみがえられた!

 

○キリストの光と平和のうちに出ていこう。ハレルヤ!ハレルヤ!

 

-----神に感謝、ハレルヤ!ハレルヤ!

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